原爆の碑と遺跡(2)爆心地 改訂版
原爆の碑と遺跡 - 2010年01月10日 (日)
原爆の碑と遺跡
(2)爆心地 改訂版 =FIG 三登浩成記=
1945年8月6日午前8時15分、島病院上空600mで原子爆弾が炸裂。
島薫院長は出張手術で不在のため無事であったが、病院の職員や看護婦、
入院患者約80人が即死。

倒壊した島病院と倒壊を免れた護国神社の鳥居(1945年11月 米軍撮影)

現在の島外科内科
当時、学童疎開中で無事だった長男の一秀さんが名誉院長、
息子の秀行さんが院長をされている。

病院の前にある爆心地の説明板
この説明板には「上空約580m」と書いてあるが、現在では 「600m」とされている。

護国神社は広島城の中に再建されたので、鳥居は城の東入り口に移転された。

原爆を投下したエノラ・ゲイ号とティベッツ機長
エノラ・ゲイは機長の母親の名前で、機長が日頃の母の励ましに感謝の気持ちを表すために、
テニアン島を出発する前に自分で書いたと言われている。

リトルボーイの頭部に付けられたアンテナは、
皮肉なことに今でもテレビアンテナとしても使われている八木アンテナが使用された。
このアンテナが地上からの距離を測り、原子爆弾は600m上空で自動的に炸裂した。

熱線によってできたこのような複数の影を延長することにょって、
爆心地(空中の爆発地点)を特定することができた。
(広島貯金支局 / 爆心地から1.600m / 1945.10.4撮影)

学術調査団は10月1日から爆心地付近で放射線を測定したが、
9月17日の枕崎台風によって表土が流されたためか、測定値は以外に低かった。
(枕崎台風による死者・行方不明は全国で約3,800人、広島県では約2.000人)


広島観光は ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

(2)爆心地 改訂版 =FIG 三登浩成記=
1945年8月6日午前8時15分、島病院上空600mで原子爆弾が炸裂。
島薫院長は出張手術で不在のため無事であったが、病院の職員や看護婦、
入院患者約80人が即死。

倒壊した島病院と倒壊を免れた護国神社の鳥居(1945年11月 米軍撮影)

現在の島外科内科
当時、学童疎開中で無事だった長男の一秀さんが名誉院長、
息子の秀行さんが院長をされている。

病院の前にある爆心地の説明板
この説明板には「上空約580m」と書いてあるが、現在では 「600m」とされている。

護国神社は広島城の中に再建されたので、鳥居は城の東入り口に移転された。

原爆を投下したエノラ・ゲイ号とティベッツ機長
エノラ・ゲイは機長の母親の名前で、機長が日頃の母の励ましに感謝の気持ちを表すために、
テニアン島を出発する前に自分で書いたと言われている。

リトルボーイの頭部に付けられたアンテナは、
皮肉なことに今でもテレビアンテナとしても使われている八木アンテナが使用された。
このアンテナが地上からの距離を測り、原子爆弾は600m上空で自動的に炸裂した。

熱線によってできたこのような複数の影を延長することにょって、
爆心地(空中の爆発地点)を特定することができた。
(広島貯金支局 / 爆心地から1.600m / 1945.10.4撮影)

学術調査団は10月1日から爆心地付近で放射線を測定したが、
9月17日の枕崎台風によって表土が流されたためか、測定値は以外に低かった。
(枕崎台風による死者・行方不明は全国で約3,800人、広島県では約2.000人)


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