戦国から江戸時代にかけ日本最大の「石見銀山」 が
世界遺産に登録され、約2ヶ月経ちました。
昨年同時期の約3倍と石見銀山遺跡(大森町内)を
訪れる方が急増しているそうです。
あなたは世界に知られた遺産を散策してみましたか?
石見銀山(いわみぎんざん)は戦国時代後期から
江戸時代前期にかけての日本最大の銀山でした。
<羅漢寺 五百羅漢>
昔、銀山で働いて亡くなった人々や先祖の霊を供養するためにと、
地元の人々、大森代官所の役人、代官、ひいては時の将軍など
多くの人々の寄進により1766年、25年もかけて完成しました。

岩盤に3つの石窟を穿ち、石造の三尊仏と五百羅漢坐像500体を安置する。
石見銀山の石造物文化を代表する信仰遺跡
扉の奥には、五百羅漢が・・(通常、撮影不可)
五百羅漢とは、お釈迦様に従っていた五百人の弟子
のことで、 世間一般の感情や欲望等はすべて超越しているのが仏、
菩薩の境地には到達せず我々人間と仏の間の存在とされ、
さまざまな表情と姿勢をされています。
<石見銀山資料館(代官所跡)>
昔で言えば奉行所跡です。260年の間に59人の代官、
奉行が交替しながら勤務していました。

銀山資料、奉行代官資料、町方資料など収集展示。
石見銀山の歴史を追体験できる施設。
町並み散策していると、道にこんな案内地図が描かれていた。

<<薄暗い龍源寺間歩入り口>>

「大森代官所跡 」から3、1kmあります。
龍源寺間歩入り口に 小さなP有(有料300円)
大型車は無理です。 通常は間歩まで徒歩です。
銀を掘るために掘った坑道を間歩(まぶ)といいますが、
石見銀山に500余り存在する間歩の中で、
現在一般公開されている「龍源寺間歩」です。

<<300メートルの地下坑道>>
中に入るとヒンヤリして肌寒いくらいです。
入り口あたりは天井が低く、160cm以上の人は
頭をかがめないとぶつけてしまいます。

ノミで掘った跡が当時のままの状態で全体に残っています。
坑道から85メートル地点には排水のため垂直に掘った
竪坑(100m)を見ることができます。

龍源寺間歩(156,7m)にしても、見学できるのはほんの一部分であり
その奥にアリの巣のように掘られている坑道は入れません。

<<栃畑谷の新坑道「石見銀山絵巻」>>
出口に向かい栃畑谷の新坑道(116,4m)右壁に
電照板で展示しており、歩きながら当時の坑道の様子が楽しめます。
16世紀から17世紀にかけて、日本から輸出された銀は
世界の産出量の約3分の1を占めてました。
その大部分を石見銀山が占め、ボリビアのポトシとならぶ
世界の2大銀鉱山だったのです。
しかし、19世紀(大正時代)に入って閉山となり、
約400年に亘って採掘が行われたこの地は、今も尚、
鉱山跡と銀で栄えた当時の町並みを残してます。
<<熊谷家住宅> 石見銀山で栄えた商家

建造物、敷地と共に、3300点にも及ぶ家財が太田市に
寄付されました。
熊谷家が日々の生活で使っていた道具、季節ごとに用いた
道具など、当時の暮らしぶりを伝える家財を展示しています
2階にある衣裳部屋(衣服・寝具展示)

台所では、使い込まれたまな板や大型の蒸籠、竈などが並び、
煮炊きするよい匂いや煙が漂ってくるかのようです。

<<旧河島家>>武家屋敷

銀山公園にある石見銀山の模型
16世紀世界に名を馳せた銀の国「プラタレアス(日本)」
その代表であった石見銀山はシルバーラッシュで
栄えた地区が大田市の広い範囲に分布しています。

お昼ごはんは・・・
大森代官所跡の向かいにある”おおもり”さんで”代官そば990円”
を食べました。

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世界遺産に登録され、約2ヶ月経ちました。
昨年同時期の約3倍と石見銀山遺跡(大森町内)を
訪れる方が急増しているそうです。
あなたは世界に知られた遺産を散策してみましたか?
石見銀山(いわみぎんざん)は戦国時代後期から
江戸時代前期にかけての日本最大の銀山でした。
<羅漢寺 五百羅漢>
昔、銀山で働いて亡くなった人々や先祖の霊を供養するためにと、
地元の人々、大森代官所の役人、代官、ひいては時の将軍など
多くの人々の寄進により1766年、25年もかけて完成しました。

岩盤に3つの石窟を穿ち、石造の三尊仏と五百羅漢坐像500体を安置する。
石見銀山の石造物文化を代表する信仰遺跡
扉の奥には、五百羅漢が・・(通常、撮影不可)
五百羅漢とは、お釈迦様に従っていた五百人の弟子
のことで、 世間一般の感情や欲望等はすべて超越しているのが仏、
菩薩の境地には到達せず我々人間と仏の間の存在とされ、
さまざまな表情と姿勢をされています。
<石見銀山資料館(代官所跡)>
昔で言えば奉行所跡です。260年の間に59人の代官、
奉行が交替しながら勤務していました。

銀山資料、奉行代官資料、町方資料など収集展示。
石見銀山の歴史を追体験できる施設。
町並み散策していると、道にこんな案内地図が描かれていた。

<<薄暗い龍源寺間歩入り口>>

「大森代官所跡 」から3、1kmあります。
龍源寺間歩入り口に 小さなP有(有料300円)
大型車は無理です。 通常は間歩まで徒歩です。
銀を掘るために掘った坑道を間歩(まぶ)といいますが、
石見銀山に500余り存在する間歩の中で、
現在一般公開されている「龍源寺間歩」です。

<<300メートルの地下坑道>>
中に入るとヒンヤリして肌寒いくらいです。
入り口あたりは天井が低く、160cm以上の人は
頭をかがめないとぶつけてしまいます。

ノミで掘った跡が当時のままの状態で全体に残っています。
坑道から85メートル地点には排水のため垂直に掘った
竪坑(100m)を見ることができます。

龍源寺間歩(156,7m)にしても、見学できるのはほんの一部分であり
その奥にアリの巣のように掘られている坑道は入れません。

<<栃畑谷の新坑道「石見銀山絵巻」>>
出口に向かい栃畑谷の新坑道(116,4m)右壁に
電照板で展示しており、歩きながら当時の坑道の様子が楽しめます。
16世紀から17世紀にかけて、日本から輸出された銀は
世界の産出量の約3分の1を占めてました。
その大部分を石見銀山が占め、ボリビアのポトシとならぶ
世界の2大銀鉱山だったのです。
しかし、19世紀(大正時代)に入って閉山となり、
約400年に亘って採掘が行われたこの地は、今も尚、
鉱山跡と銀で栄えた当時の町並みを残してます。
<<熊谷家住宅> 石見銀山で栄えた商家

建造物、敷地と共に、3300点にも及ぶ家財が太田市に
寄付されました。
熊谷家が日々の生活で使っていた道具、季節ごとに用いた
道具など、当時の暮らしぶりを伝える家財を展示しています
2階にある衣裳部屋(衣服・寝具展示)

台所では、使い込まれたまな板や大型の蒸籠、竈などが並び、
煮炊きするよい匂いや煙が漂ってくるかのようです。

<<旧河島家>>武家屋敷

銀山公園にある石見銀山の模型
16世紀世界に名を馳せた銀の国「プラタレアス(日本)」
その代表であった石見銀山はシルバーラッシュで
栄えた地区が大田市の広い範囲に分布しています。

お昼ごはんは・・・
大森代官所跡の向かいにある”おおもり”さんで”代官そば990円”
を食べました。

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